おれと洒落怖

なんとなく哲学ニュースにまとめられた怖い話を読んでるんだけど、「洒落怖」よりも「ほんのりと怖い話」というのがぞくぞくして良くて、多分それは短さかなと思った。

霊がいるいないはさておき、本当にあったこととして書いてる投稿者としては、やっぱり信じてもらいたいだろうし、怖がってもらたいはずだ。だからリアリティを持たせるために、突然「こらあ、貴様何しとんじゃ!」と激昂する爺婆たちのセリフをまるでインタビュアーのように一言一句余さずつぶさに書いてしまうし、もう何年も前の話だったはずなのにやけにしっかりとしたディテールで書いてしまう。その結果、長文になる。投稿者が嘘書いているとは思わない。見間違いだったけど、その瞬間は確かに人に見えたことぐらいならおれにだってあるのだ。けれどその瞬間を尊重するあまりに、過剰な文章になってしまってぞくぞくしなかったり「あー、このパターンね」となってしまう。だって自分が何をするつもりでもなかったことでいきなり怒鳴られたのに、相手の言ってることを正確に把握するなんておれにはできないし、恐怖体験をしたその瞬間を覚えているのは分かるけどなんでもないその前段階を細かく覚えていることもちょっとできないから。

要するに突っ込みどころが増えてしまうことが興ざめの原因だと思う。普通、物語を作るときに設定は凝るに越したことはないと思うけれど、こと、実話だったりムードが大切なタイプの話では一概にそうとも言えないのかなーなんて思う。

よくできた怖い話で、このなんとなく科学的、どんとこい超常現象的に説明がつきそうな部分だけは本当であとは全部他の人の話とかを混ぜて膨らませたんだろうなって思うのもある。それに限らず殿堂入りしているような怖い話とかは、多分その道のプロ級が書いているのだ。YouTubeニコニコ動画でプロ並みの演奏や映像をアップしている人がいるのだから、テキストでもそういう人がいるのは不思議じゃない。

そしたら急に「電車男」を思い出して、あーあれもそうなんだろうなーって飛躍。